聖書について

聖書とは何ですか?

「バイブル(聖書)」ということばは、ラテン語とギリシャ語の「本」という意味のことばから来ています。聖書は66巻の書物から成り立っています。およそ40人の人間の別々の著者が貢献して、約1500年に渡って書かれました。聖書は神様からのラブレターと言われています。聖書は私たちへの愛のメッセージが語られている本です。

2018年7月15日「無駄にしない」IIコリント6:1-10、マルコ4:26-34

神の国とは?

 今日の箇所はイエス様が神の国についてたとえを通して語られた箇所です。私たちにとって神の国とはいったいなんでしょうか。ぱっと思いつくのは、天国かもしれません。しかし、聖書において救いは何も死後の出来事のことだけではありません。今、生きている私にとってもイエス様の救いがあり、神の国がそこにあるのです。

 救いは恵み

 まずイエス様が話されたのは、「成長する種」の例え話でした。このたとえ話は、種が成長するのを人を知ることができないということが語られています。つまり神の国は人の手によるものではない、天の神様の御旨によるものなのだと聖書は語っています。それは、神の国、また救いというのが、完全な「恵み」「贈り物」なのです。

小さいと思えることが

 イエス様はからし種のたとえを語られました。からし種というのは、当時小さい種ということの代名詞にもなっていた種です。0.5mmほどの種から2,3mにまで成長すると言われております。それは、小さい、見えないと思われるようなことにまさに神の国、救いがあるのです。私たちの歩みにおいても、小さく見えるようなことがあるかもしれません。しかし、そのような小さな行いの中に、主が働いてくださって神の国を広げてくださるのです。

  • 26:マルコによる福音書/ 04章 26節
    また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 
  • 27:マルコによる福音書/ 04章 27節
    夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 
  • 28:マルコによる福音書/ 04章 28節
    土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 
  • 29:マルコによる福音書/ 04章 29節
    実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 
  • 30:マルコによる福音書/ 04章 30節
    更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 
  • 31:マルコによる福音書/ 04章 31節
    それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 
  • 32:マルコによる福音書/ 04章 32節
    蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 
  • 33:マルコによる福音書/ 04章 33節
    イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 
  • 34:マルコによる福音書/ 04章 34節
    たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

2018年6月17日「主の愛に留まる」ヨハネ15:11-17、Iヨハネ4:7-12​

主はぶどうの木 
 今日の聖書の箇所はイエス様の無限の愛が現れている箇所です。イエス様は自分の死を前にしてそれでも弟子たちを愛し抜かれました。ここでは私たちがイエス様の愛に生きるためぶどうの木のたとえについて語られています。主のぶどうの木につながるなら豊かな実を結ぶと聖書は語っています。 

イエス様の喜び
 私たちはイエス様の喜びを自分のものとして受け取れることができると聖書は語ります。どうすれば自分のものとできるでしょうか。それは互いに愛し合うことによるのです。

無償の愛 
 聖書が書かれているギリシャ語には愛について三つの言葉があります。それはエロス、フィリア、アガペという言葉です。エロスは自己中心の愛、フィリアは友情の愛、そしてアガペのが自分の利益を求めない無償の愛です。イエス様の愛こそがご自分を犠牲とするアガペの愛です。アガペの愛が私たちに与えられています。

 イエス様が私を選んだ
 私たちは自分で真の神を信じることができません。神様が私たちを見つけ出し信仰を与えてくださるのです。そして互いに愛し合う力が与えられるのです。だからこそまずイエス様の愛に留まることが大切です。
  • 11:ヨハネによる福音書/ 15章 11節
    これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
    12:ヨハネによる福音書/ 15章 12節
    わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 
    13:ヨハネによる福音書/ 15章 13節
    友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
    14:ヨハネによる福音書/ 15章 14節
    わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 
    15:ヨハネによる福音書/ 15章 15節
    もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
    16:ヨハネによる福音書/ 15章 16節
    あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 
    17:ヨハネによる福音書/ 15章 17節
    互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

2018年6月10日礼拝メッセージ「アーメン=ホンマそれ!」

イザヤ44:21-22、IIコリント1:18-22、マルコ2:13-17

 今日の聖書の箇所の人物も生涯をイエス様に捧げた人物でありました。それはレビという人物、またの名をマタイと言います。新約聖書のマタイの福音書を執筆した人物が今日出てきたレビ、マタイです。レビは、イエス様の呼びかけにすぐに応えてついて行きました。そして、それから主の弟子として生涯をイエス様のために捧げていくのです。レビが、主の弟子として従い、生涯を主に捧げたのは、彼が偉かったからではありません。彼は自分が罪人であり、救いが必要であるということを知っていました。そしてこのイエス様に自分が招かれたからこそ、彼は生涯を主に従うことができたのです。

 私たちも、足らないもの、救いが必要なものです。イエス様はこの私を救うためにこの地にこられたのです。そして、私たちのすべての罪をその身に受けてこの十字架で身代わりに死んでくださいました。私たちはこの主を信じる信仰によって、主の命に生きるものとされるのです。

 私たちはお祈りの最後にいつも「アーメン」と唱えます。それは、「そうです。その通りです」という意味です。ある人がアーメンは関西弁でいうと「ほんまそれ!」だと言っていました。私たちが罪赦され、こうして召されていることは「アーメン!ほんまそれ!」と言えることです。レビが喜びのあまり主に従い、生涯を主に捧げたように、私たちもそれぞれの場にあって主の喜びを表し「アーメン!ほんまそれ!」と告白していきましょう。

マルコによる福音書
2:13イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 
2:14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 

2018年6月3日「その手があったか!?」

聖書箇所:マルコ2:1−12、Iコリント9:24−27

マルコの福音書2章、この箇所はイエス様が中風の人に出会いそのかたを癒されたという箇所です。中風とは脳出血などによって起こる、半身不随、手足のまひなどの病気でした。この人は中風によって全く動けない、寝たきりの状態でした。彼は四人の友達によってイエス様のところにやってきました。家がいっぱいでなかなかイエス様の元に近づけなかった4人の友だちは、天井を崩して屋根からその人を吊るしてイエス様の元へと連れて行きました。まさに「その手があったか!?」と思うようなやり方でした。

 しかし、実はイエス様もこのとき少し不思議に思える行動をされたのです。それは、中風の人の罪を赦されたという点です。きっとこの中風の人は、体を治してほしかったと思います。しかし、イエス様はここで「あなたの罪は赦される」と語ったのでした。イエス様はここでなぜ罪の赦しを宣言されたのでしょう。それは、私たちの本当の問題がなんなのかをはっきりするためでした。

私たちが抱える1番の問題は罪です。そして病気やけがなども罪の結果であると聖書は語っています。もし、このとき中風の人をすぐに癒していたらどうだったでしょうか。きっとこの人は中風が治ったということだけに心を向け、自分の罪やそれを救ってくださったイエス様に目を向けることができなかったのではないかと思うのです。

 私たちはまず罪を赦していただければならないのです。そして、イエス様はまさにその罪を赦すためにこの地に来られたのでした。その救いが十字架です。イエス様は私たちのすべての罪をその身に背負い、十字架にかかられました。この十字架の死があるからこそ、わたしたちは「あなたの罪は赦された」と宣言されるのです。

マルコによる福音書
2:1数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2:11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。