主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください。(詩篇 86:11)

毒麦のたとえ

「天の国」「神の支配」、それは、命をもって成長するものです。けれども、そのような「天の国」「神の支配」の成長を妨げようとする力、むしろ、「天の国」「神の支配」を破壊しようとする力も働く、必ず働くということを警告されたたとえ、それが、毒麦のたとえということです。わたしたちは、この地上を歩む限り、この罪の現実から逃れることはできないのです。わたしたちは、しっかりとこの罪の現実を見据えなければならないのです。けれども、罪の現実を見据えるというとき、それは、決して、自分の思いでそれを糾弾し、審くということではありません。わたしたちは、みことばの上に自分を置いて、人を裁いてはならないのです。

一筋の心

わたしたちは、罪の現実をしっかりと見据えつつ、正しく神様に委ねて行く。そのために、どうすればよいのでしょうか。高度な洞察力と忍耐力、人間性を培って行く必要があるのでしょうか。そうではありません。ダビデのように、自分の努力やがんばりによって、心を一つにする必要はないのです。心が乱れに乱れているそのままで、神様の前に出、神様に訴え、神様が「一筋の心をお与え下さる」ようにと祈ることができるのです。それは、主が、わたしたちのいっさいの重荷と罪と死の現実を引き受けて、十字架で死に、復活して下さったお方だからです。