イザヤ44:21-22、IIコリント1:18-22、マルコ2:13-17

 今日の聖書の箇所の人物も生涯をイエス様に捧げた人物でありました。それはレビという人物、またの名をマタイと言います。新約聖書のマタイの福音書を執筆した人物が今日出てきたレビ、マタイです。レビは、イエス様の呼びかけにすぐに応えてついて行きました。そして、それから主の弟子として生涯をイエス様のために捧げていくのです。レビが、主の弟子として従い、生涯を主に捧げたのは、彼が偉かったからではありません。彼は自分が罪人であり、救いが必要であるということを知っていました。そしてこのイエス様に自分が招かれたからこそ、彼は生涯を主に従うことができたのです。

 私たちも、足らないもの、救いが必要なものです。イエス様はこの私を救うためにこの地にこられたのです。そして、私たちのすべての罪をその身に受けてこの十字架で身代わりに死んでくださいました。私たちはこの主を信じる信仰によって、主の命に生きるものとされるのです。

 私たちはお祈りの最後にいつも「アーメン」と唱えます。それは、「そうです。その通りです」という意味です。ある人がアーメンは関西弁でいうと「ほんまそれ!」だと言っていました。私たちが罪赦され、こうして召されていることは「アーメン!ほんまそれ!」と言えることです。レビが喜びのあまり主に従い、生涯を主に捧げたように、私たちもそれぞれの場にあって主の喜びを表し「アーメン!ほんまそれ!」と告白していきましょう。

マルコによる福音書
2:13イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 
2:14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」