わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。 わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。 心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ 13:34)
イエス様が私達に与えられる平安はまず神様との平安であるということです。ヘブライ語の「shalom」、ここで「平安」と訳された言葉の基本的な意たい「神様の御心の通りの状況」という意味です。ですから、イエス様の平安を受けると、御心通りの状態になるので、つまり神様との関係がよくなるということを意味しています。その平安を持っている人は神様が私を愛しておられるということが分かって、安らぎを持つのです。
今の世界にある平安とは、別のタイプの平安でしょう。この世界の平安とは誰からも、または何からも干渉されないような状況のことです。この世の平安は全ての心配や恐れやイライラすることから解放されることですね。残念ながら、このような平安は簡単に打ち砕かれます。全ての人々は例えば重い病気のときこのような平安を失うからです。
しかし、イエス様が私達に与えられる平安とは完全な平安です。それは重い病気のときにも失われることはありません。イエス様の平安はこの世の平安と同じような感情によって左右されるものではなく、揺ゆるがない事実です。その平安は、イエス様が私達の代わりに十字架で死なれ、私達の罪を赦されたから与えられた平安です。この神様の赦しは完全な赦しです。それを通してイエス様は私達と神様の関係をいやされ、私達に平安を残されたのです。
使徒パウロはローマ5章で「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。…そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生うみ出だし、忍耐が練ねられた品性を生み出し、練ねられた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」と書きます。
このように、私達は神様の導きの下に歩むならば、重い病気や人間関係のトラブルのときにも希望があります。私達の希望はこの世の中ではなくて、神様にあるからです。
イエス様の平安は私達の心の深いところにまで及んでいますから、イエス様の平安は私達の平安であり、希望と言えるでしょう。イエス様の平安があるならば、恐れることは何一つありません。